|
加茂川の元の流れだった「堀川」は、平安京造営時に鴨川の流れを現在のように東に迂回させて人工の水路河川として作られ活かされてきました。それから京のみやこが発展するにしたがい、やがてその流れに沿って商工業が発達したのでした。
時が経って、明治時代には商人や職人の店が軒をつらねる様になり、寄席・映画館・飲食店などもできて商店街として進展を遂げて行きました。 昭和初期には、堀川の丸太町通(まるたまちどおり)から中立売通(なかだちうりどおり)までの両側に300余軒の店が並び、鉄骨製アーチの全蓋テントと電気照明に私費舗装が映える繁華街として大いに繁栄し、東の「新京極」に相対して「堀川京極」と言われるほどでした。 しかしながら、賑やかに栄えていたその商店街は第二次世界大戦中に執行されました戦時強制疎開により、終戦間近の昭和二十年五月に無念にも取り壊されたのでした。 戦後は堀川通も他の大通りと同じ様に都市計画に基づいて整備され、現在のような京都市の南北を貫く中心幹線道路となり、その姿を一変しました。 それから数年後の昭和二十六年に商店街は昭和2年に結成された「堀川京極会」を母体として「堀川商店街協同組合」となり、全国で最初の公営店舗付住宅としてようやく堀川商店街が再建されました。そして永年の歴史を受け継ぎながら、多くの皆さんに愛される商店街として今日に至っています。
|
||||||||||||||||||





